たけしの言葉で納得! もはやテレビは死んでしまったのか?

ずっと考えていたのだ。
なぜテレビがこうも面白くないのだろうかと。
面白くもないし、惹きつけるものなどほとんどないし、心底笑える番組がない。
むかーしむかしオシャレなカフェで垂れ流されていたイメージビデオとかプロモーションビデオみたいにしか見えないのだ。
なぜなんだろう?何が原因なのだろう?
いつからテレビは死んでしまったのだろうか?

ほんと、テレビが異常なレベルで面白くないんだよ!

どこの局(ここではキー局)も、同じようなことしかやっていないのだ。
Youtubeで拾ってきたもの、動物とか子供の動画などをネタにして、その場でバカ受けしてる様子を垂れ流しているだけ。
朝の番組では、女子の話題にいい年のおじさんが無理してついて行こうとしらじらしい笑いが妙に寂しく響く。
お笑いはお笑いで芸人のレベルが落ちている。すべてがそうとは言えないが、ブームの火付け役は子供なので、子供に受けるようなリズムねたで安寧を保とうとしているかに見える。
ドラマといえば、刑事ものと医者ものの繰り返しの気がしてならない。
出演者もジャニーズがとっかえひっかえ。
同じ顔ぶれにもいい加減、飽きてきた!
そして何が気になるって、ここ数年で画面にぼかしが入るレベルがハンパないのだ。
日本における映画の中のぼかしもえげつない下品さだと感じていたが、これがいまや局所にバンバンはいっている異常さだ。
こんなもの見ているのだったら、わざわざテレビというフィルターを通す必要などない…動画でも眺めていた方がマシだろう。

SAPIO 5月号がとてつもなく面白ろすぎる

「誰がテレビを殺したのか」
と銘打った『小学館のSAPIO(サピオ)5月号』は、イマドキのテレビの裏事情や自分が疑問に思っていたことを解決し、わだかまっていたもやもやを払拭するレベルの充実した内容なのだ。
とりわけ、たけしのインタビューは読みながらもつれ絡まった糸が解けたようなスッキリ感をもたらしてくれるのだ。

「アレ言っちゃだめ」「これもダメ」でテレビ局の「自主規制」は年々ひどくなっている
最近、テレビじゃ何も面白いことがいえなくてムカムカしてるんだ

(SAPIO 5月号 14頁)

ビートたけし(ここでは北野武ではなく、ビートたけしの発言だ)は、現在のテレビの在り方に忌憚ないコメントを残してくれている。
テレビ業界の中では“たけしルール”というものが存在するとも明かしている。
他のタレントなどではNGのヤバい発言もたけしの口から出たとあらば、暗黙のうちに許容されるというものだ。
どう考えてもそれはあるだろうし、あるべきだ。
彼の芸歴とテレビ界に残してきた実績をもってすればそれくらい当然だと思う。
そんな彼でも 物足りない、もっと毒舌を披露したい フラストレーションを今のテレビにおいて感じるというのだ。
一因として…
たとえばたけしが会話中にノってきて、毒舌を振るい「よーし!いっちょやったるぜ」と意気込んだところで、絶妙なタイミングで共演しているAアナのような人物にさらりとかわされ、話を次ぎに切り替えられてしまうのだ。
(Aアナとは、ご存知いただけたと思う…安住アナである。)
こんな時、たけしにしてみれば残尿感にも似た釈然としないもやもやが募るのだろう。

最近「たけしはテレビであんまり毒舌を披露しないし、そもそもあんまり喋らなくなった」なんてツッコミを入れられることが多いんだけど、実はガンガン喋ったって放送ではカットされちまうんだよな。

(SAPIO 5月号 14頁)

これでは、さすがのたけしでも笑いを取る気力も失せてしまうだろう。

ネット番組に出た時の感想を語る

そんな中 昨年末、ニコニコ生放送に出演した時は久々に爽快だったようだ。

去年の12月の衆院選当日は、ニコニコ生放送の開票特番に出てやったんだよな。テレビじゃ何も面白いことがいえなくてムカムカしているところに「何でも喋っていい」っていう条件のオファーが来たもんだからさ。

(SAPIO 5月号 14頁)

そうは言っても、ネット・メディア礼賛は安直すぎるとして全面的に持ち上げていない、テレビを見捨てることをしていない。
たけしなりの長年世話になってきたテレビ業界に対する礼義なのだろう。
また、私が常日頃感じていることも代弁してくれている。

テレビが面白くなくなったこととネットとの関連性

そもそもテレビががんじがらめの自主規制を強めたのはネットの影響が大きいんじゃないか。
ネット社会では、番組へのクレームが直接スポンサーにいってしまうから、テレビ局が萎縮してしまうんだよ。

(SAPIO 5月号 15頁)

これだ!
これは、大きいだろう。
テレビを見ていた視聴者が、言葉尻を捕らえるレベルの発言を問題化し、SNSで取り上げるとフラストレーションの解消といわんばかりに一斉に人々が飛びつき拡散されてしまうのだ。
これが、炎上というやつだ。
(一番最近の炎上といえば、“藤原紀香の底辺”発言だろう。これも、言葉尻を捕らえて騒ぐレベルである。テレビ番組での発言ではないが )
こういったSNSでの騒ぎから直接番組のスポンサーである企業に苦情を入れたり、あげくは企業の不買運動などをネットでけしかけたりするネット民がいることは確かだ。
このような事情から
スポンサーである企業側に迷惑をかけたくないテレビ側が言葉狩りをはじめた
とたけしは語っている。
テレビというメディアにおいて、言葉を選び選び話す会話ほどつまらないものはない。
「まずいことを言ってしまうのではないか?」
という出演者のいらぬ緊張感が型にハマった演出とあいまって、面白さを半減させているのだ。

たけしが語る 規制をかいくぐって「新たな言葉」を作り上げるということ

同じ内容の番組ばかりを使い回すテレビの中で、どう生き残って行くか?

これはオイラの持論なんだけど、規制をかいくぐる「新たな言葉」を作り上げるってのも、
テレビや芸人の役目だと思う。

(SAPIO 5月号 15頁)

こう熱く語りながらたけしは、言葉問題だけではなく番組作りの在り方にも話題が及ぶ。
日本という国のメディアにおける“パクリ文化”についても言及している。
日本では海外のテレビ番組を元ネタにして、我流で作り上げて成功してきた時代があった。
『クイズダービー』や『世界まるごとHOWマッチ』が視聴率を稼いでいた時代が、振り返れば確かにあったのだ。

いまのテレビ番組においてパクリ番組は多々存在している。
しかし、どれも面白いと感じないのはなぜだろうか。
視聴者がネットになれて、テレビにより上のレベルを求めるようになったとも考えられる。

オイラだったら悔しくて、「どうせパクるなら100倍面白くしてやろう」って考えるけど、
そんな反骨心が感じられないから寂しいし、「テレビの未来はヤバいぞ」って思っちまう。

(SAPIO 5月号 15頁)

今のタレントやお笑い芸人には、果たして“反骨精神”などはあるのだろうか?
今のこの流れにただひたすら乗っかっているだけでは、何も変わることはないだろう。

毒にも薬にもならないものを、垂れ流すメディア

それがこの時代のテレビの立ち位置だ。
もはや、テレビは無用の長物なのか。
テレビで育った筆者としては、この状況はあまりにも寂しすぎる。
毒と薬を選び取り見るのは、わたしたち視聴者である。
わたしたちも変わっていかなければ、今のテレビの行く末はないのだろう。

本誌では、たけしのインタビュー記事以外にも、今のテレビにおける裏事情が垣間見える記事が多々掲載されていて、大変面白かった。

注)本文中ではあえて“たけし”と呼ばせていただいており、接尾語は省いております。

TOPの写真: 個人で撮影したものを使用
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